訳文:
アリスとボブ
2025年7月15日
原文:
The Anarchist and the Egoist in Love
ケリー・ヴィー(Kelly Vee)
2022年5月6日
アナキストによる全ての人たちの幸福への献身はエゴイストによる自己の幸福への献身とはどう和解できるか?和解の由来は政治でも宗教でも市場でもない、と私が提案する。アナキストとエゴイストは愛の中に和解を見つける。
愛は幅広い意味を持つ単語である。英語のただ一つの単語の中に含まれた全ての概念をそれぞれ表現する古代ギリシア語の単語が多かったことは不思議ではない。ただ少数の例をあげれば:恋愛のエロス、家族愛のストルゲー、友情愛のフィリア、そして人類愛のアガペー。ギリシア語の各単語は愛の種類の相違点を強調するが、それらの共通点の方が遥かに重要である。
真の愛は愛人が互いをただの手段として利用することなく、互いを目的として捉えることを必要とする。愛は愛する人または愛される人の従属を必要とせず、それを必要とすることができない。愛には従属も支配も存在しない。正しく理解されたエゴイズムとアナキズムはこの原則の最大限の適用である。アナキストかつエゴイストの愛には神や支配者が存在しない。その愛は尊厳、自律、そして自分と他人への敬意の上に築かれたものである。シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)の言葉によれば、「本物の愛は二つの自由の相互認識の上に成り立たなければならない。従って、各愛人が自分かつ相手として自分を経験する。両者とも自分の超越を放棄せず、自分を損傷させない。一緒になって両者が価値観と目的を世界において明かす。」愛することにより、愛する相手の尊厳と自律を認め、支持しながら、私たちは本物の自分と自分の最も大切な価値観を肯定し、主張する。
愛は私たちの人間性の最大限の表現であるものの、「無私無欲」という名目で従属と自己否定を売る支配制度により汚染され、歪められた。これらの制度は、関与する全ての人に害を与えてしまう虚偽の愛を助長させる。愛は強要と階級のことではなく、自由と平等のことである。愛は自己否定のことではなく、自己実現のことである。愛を卑下する制度を理解し、それに抵抗し、それを克服することにより、私たちは真の愛を発見し、創造し、支持することができる。
愛を台無しにする制度の一つといえば、結婚が(男性ではなく)女性の人生の最高の目標であり、服従と従順が立派な「女性らしい」美徳であると教える家父長制的かつしばしば宗教的な統制制度である。キリスト教の伝統的な結婚の誓いにはしばしば夫を「愛して大切にする」だけではなく夫に「従う」という新婦の約束が含まれる。キリスト教の神学において、女性は男性の肋骨から創り上げられた。従って、女性は自分の固有の人でも目的でもない。エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)の随筆『結婚と恋愛』(1914年)では、結婚と恋愛が正反対であると彼女が対照したことは不思議ではない。ゴールドマンにとって、恋愛は自由である一方で、結婚は支配である。宗教と国家に統制されている制度である結婚は、恋愛とは相入れない。彼女はこう述べた:
人生の全般にわたつて最も強く最も深い要素である恋愛、希望と歓喜と至楽の先駆者、あらゆる律法と因習の侮蔑者、人間運命の最も自由にして最も力強き型成者なる恋愛――かくの如く全てを圧倒する力がなんでかの国家と教会から生れた雑草の如き結婚と同意義であり得よう?1
ゴールドマンは、男性が現れて自分を妻にしてくれるまで「生命と情熱とに充ち、健康で成熟した婦人」1が自分の欲望を抑えるべきであるという考えを批判した。結婚後、女性は夫に頼り、自分の要求を満たすことができない従属の寄生者に降格される存在となる。夫婦関係は、愛し合う対等な者同士の結び付きよりも、主人と奴隷との関係には似ていた。片方の要求が相手の要求に従属するダイナミックは夫婦の両方にとって不健全である。
現在、妻が夫に従う約束を含む結婚の誓いは1914年に比べて遥かに稀である。しかし、過去のように現在も「一般の娘等は大抵幼少から結婚が彼女の最終目的であると語られる。だから彼女の訓練と教育とはその目的に向つて導かれなければならない。」1つまり、結婚は建前としては(家父長制が許容する範囲内で)女性を完全な人にするものである。音楽であれ恋愛コメディであれ、自律と個性を犠牲にする愛という家父長制的な考えは大衆文化の中で持続し、文化が「ウォーク」になりつつも、自己犠牲的な愛という考えが頑固に生き続ける。
家父長制によるエロス(恋愛)の変態は、母性の一般的な見解におけるストルゲー(家族愛)に及ぶ。妊娠と出産が必要とする身体的犠牲を賛美する(または否定する)ことにより始まる。「出産の名言」をググれば、当然の出産天才であるスティーブン・ガスキン(Stephen Gaskin)のこの言葉「出産時に女性が直感的に体験できる賢明さと思いやりにより、女性は他の女性のための癒しと理解の源になりうる」のような多数の偽エンパワーメント名言集に迎えられるであろう。出産直前ではインスピレーションが役立つかもしれないと私が想像するが、社会が自己犠牲的な愛を賛美するからこそ出産がそれほど痛いのではないかと疑問に思わずにはいられない。なぜ「医学的に必要」とされない帝王切開が見下されるのか?なぜ多くの自称の妊娠中絶賛成活動家は妊娠と出産の身体的悪影響への懸念が妊娠中絶の検討に値しないとまだ考えるようなのか?「母の愛は全てに耐え抜く」と言われ、私たちがあんなに我がままになるとは?妊娠と出産は母親たちにとって親の愛の奥深さを示す初めての「機会」だから。父親たちにはそんな機会が無いでしょ。
世界一有名な母、処女マリアは従順と従属のため褒められる母性の無比の理想である。処女マリアの重要性は彼女が愛する人との関係に依存する。処女マリアの愛情深い犠牲が無ければ、彼女の息子による更に大きくて優れた愛情深い犠牲が不可能であった。処女マリアは息子の要求より自分の要求を決して優先しようとせず、同等に扱うことさえしなかった。これは全ての母親たちが志することになっている理想である。自分の要求を優先する母または妻は我がままであり、愛が求める道徳的義務に失敗している。ストルゲー(家族愛)は最高の形態に達するには身体的かつ心理的な自己犠牲を必要とすると言われている。
母と妻の家父長制的地位において自己犠牲的なエロスとストルゲーは認識しやすいが、フェミニストは「愛の罠」と私が呼ぶ概念からの影響を受けないわけではない。伝統的な道徳哲学の家父長制的な短所の一部に応えようとして、ケアの倫理はキャロル・ギリガン(Carol Gilligan)やネル・ノディングズ(Nel Noddings)などのフェミニストたちが展開した。正義と抽象的な義理かつ義務を強調する伝統的に男性的な道徳モデルとは対照的に、女性的なケアの倫理はケアと人間関係を最重要視する。ケアの倫理は思いやりと共感という伝統的に低く評価された「女性的な」美徳を適切に高めるが、私たちの道徳的義務の関係的性質を過剰強調するため不充分である。そうすることにより、ケアの倫理は気付かずに個人的道徳を外部の関係により課せられる他人の要求の支配下に置いてしまう。
プーカ2、カード3とデービオン4などの評論家が主張したとおり、ケアの倫理は、たとえば自分に被害と疎外が及ぶまで男性と子供の世話をする女性のこと、ケアの歴史的文脈そしてケアと愛の相互的な性質を考慮せずに、ケア行為の価値を無批判に高く置く傾向にある恐れがある。このように、ケアの倫理では、ケアを与える側は目的として捉えられるどころか、受ける側に提供できるものにより縛られ、ケアを受ける側との不公平な関係に置かれてしまう。愛を自己の発達に組み入れるよりも、ケアの倫理は自己を後からの思い付きに降格する。自己の内部ではなく外部に道徳を置く道徳規範は真に解放的でも真に愛情深くもない。ケアの倫理は「女性的な」愛とケアを「男性的な」論理と正義との対照的な関係に置くが、愛が自己実現の構成要素であると正しく認識すれば、愛と論理が一体であることがわかる。
愛の社会的劣化は家父長制から切り離せない。愛はしばしば「女性的な美徳」に降格され、それにより、歴史的には愛の変態は最も明白な仕方で女性に影響を及ぼした。この堕落した愛は昔から家父長制の道具となっていたが、愛が相互的なフィードバックループに陥っている可能性が高い:女性が従属すべきであり、愛が女性と関連していれば、当然ながら私たちは愛を従属と見なすことになる。愛を従属と見なす私たちの堕落した理想はエロスとストルゲーを遥かに超えて広がり、私たちによる人類愛であるアガペーの概念化の仕方を汚染する。歴史上、最も偉大な自己犠牲者は女性ではなかった。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節5)処女マリアは愛情深かったが、彼女の従順で母性的な愛はイエス・キリストの自己犠牲的なアガペーの高さに達することが無い。キリストの犠牲は愛の典型的な西洋概念の最重要物であり、あらゆる犠牲の中の犠牲である。これより偉大で信心深い愛が存在しない。物心ついた時よりずっと前に、キリストの犠牲は一般の人間がそれの真似を夢で見ることしかでなきない愛の究極の表現である、と私が日曜学校で教わった。彼の犠牲は全人類を救ったほど強力な愛であった。私は全人類を救うことを希望できることが無いが、宗教のためでなければ愛のために、殉教者になることによりキリストの足跡を辿って歩くことができる。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15章13節5)
このような普遍的な愛というキリスト教の概念は堕落する運命にあった。キリスト教の歴史が血だらけであることは何ら驚くことではなかろう。地球上の命の価値を下げる来世の約束に加え、神が自分の息子を犠牲にすることにより人類愛を表すことができれば、キリスト教徒が他人を犠牲にすることにより神への愛を表すことができると考えられることは難しくない。この精神は正義の戦争や聖戦というカトリック教の教義の中に明示された。12世紀、クレルヴォーのベルナール(Bernard of Clairvaux)はこう述べた:「キリストの騎士が死を与える時、キリストの利となり、死を遂げる時、自分の利となる。」8世紀後、ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)はその精神の不健全さについてはっきりと述べた:「自己犠牲は、恥知らずに他人を犠牲にすることを可能にする。」自己愛は人類愛の終わりではなく始まりである。
いつも同じ方法でとは限らないが、世界中のほとんどの宗教はこの理想を何らかの形で助長させる:個人の価値は社会の価値より低く、「公益」のための自己犠牲は長期的に、しばしば死後に、報われる。この態度は、社会が宗教から敬遠しつつも、愛と英雄的犠牲についての私たちの前提が充分に問題視されないままグローバルな文化に行き渡っている。やはり、『ハリー・ポッター』『マトリックス』『指輪物語』『スーパーマン』などのフィクションにおいて、キリストは何度も模擬されている英雄の型板である。実生活において、戦争はもう神聖な十字軍ではないが、実際に誰かの利益になったか否かにもかかわらず、兵士の死は今も英雄の究極行為として高く評価される。私たちはずっと以前からオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の賢明な言葉を心に留めるべきであった:「人がそれのために命を懸けたからとはいえ、それが必ずしも真実であるとは限らない。」
自己犠牲的な愛は愛の最も本物で深い形態であると広く不可避にさえ美化されている。この気持ち悪い嘘は反エゴイスト極まりなく、愛が正しく理解されれば愛にも反することがわかる。自己犠牲的な愛が相互的になるということは、相互破壊的になるということである。真の愛は自己犠牲を必要としない。自己犠牲的な愛は最良の場合ゼロ和ゲームであるが、真の愛は全くゼロ和ではない。真の愛は自己犠牲ではなく自己の絶頂である。
エゴイストは、私たちが人間として他人になることを体験することが全く不可能であることを認識する。自分の外で存在することが不可能であるため、他人の要求だけに基づいている道徳規範は破綻している。社会的、文化的と財政的な圧力はしばしば本当の自分でいることさえ困難にする。私たちは他人のために他人の期待に基づきしばしば真正性と個性を演じる。他人も同じことをするため、私たちが互いと本当の自分の両方からいっそう疎外されていく。そして時間と共に、この演技を現実からほどくことが困難になる。深い認識論的なレベルで自分を疑ってしまう。従って、エゴイストにとってのジレンマは、自分らしく生きる意味とは何かをはっきりしようとすることである。自分が失われていれば、ある人はどう自分を肯定し、主張することができるか?
言葉で言い尽くせない愛の美しさは直感から始まり、発見により深まる。愛することにより、私たちは最も本物の自分になる。愛することにより、自分が愛する人の中に秘められた真実を発見する。愛することにより、無くなったと思った自分も見つける。エゴイストのアイン・ランド(Ayn Rand)は恋愛(と恋愛の親愛な表現であると彼女が見なしたセックス)の利己心についてこう述べた:
恋愛は盲目と言われている。セックスは理性に影響されず、全ての賢者の権力を馬鹿にする。しかし、実際には、人の性選択はその人の基本的な確信の結果と総体である。ある人が感じる性的魅力について教えてくれれば、その人の人生哲学の全てを教えてあげる。その人が誰と寝るかを見せてくれれば、その人の自己評価を教えてあげる。無私無欲の美徳について教えられた堕落によらず、セックスはあらゆる行為の中の最も非常に利己的であり、自分の快楽以外の目的でできない行為——利他主義的慈善の精神でそれを演じることを想像してみよう!——自己卑下中には不可能で、自己歓喜しながら、欲求され、欲求されるに値する自信を持っている時だけ可能な行為である。心身とも自分を裸で立たせる行為であり、真の自我を価値基準として受け入れさせる行為である。その人は最も深い自分像を反映する人、身を任せることにより自尊心の体験——または見せかけ——を許してくれる人に、必ず惹かれる。…愛は自分の最高の価値観に対する自分の反応であり、それに他ならない。
自分が愛する人を尊重することにより、私たちは自分自身も尊重する。
ランドによるセックスと恋愛における利己心の賛美は、愛に一般に帰される気前の良く寛大な性質と正反対であるように見える。愛は「それ自身を充分完全に与へる」1とゴールドマンが述べた。自分を大切にしながらどうやって充分完全に与えることができるか?利己心とこのような寛大な愛は本質的に相入れないのではないか?
私たちの言語は破綻している。私たちは、人間関係における「犠牲」について話す時、実際にはしばしば妥協を意味する。個人としてそれぞれの目標、要求と好みを持っている独立した人間であるため、親しい関係において相違が発生することが自然である。しかし、自分が愛する人と調和するよう、愛は自分の価値観の拡張、深化と再概念化をさせてくれる。私たちは相手の幸福を自分に組み入れ、相手も同じようにしてくれる。人間関係が必要とするこのような妥協は全く犠牲ではない。愛は私たちに、愛を含めて共有する価値観を適切に評価させ、どちらの目標、要求と好みが最も重要かを考えさせてくれる。愛は新しい要求と目標を導入し、他を満足させ、更に他を無関係または些細にする。このような見直しは犠牲または自己喪失ではなく、自己拡張である。
愛、思いやりと他人のケアはエゴイズムから切り離せないが、ほとんどの場合、互いに対抗させられる。2009年の演説では、たとえ完全なエゴイストの結論まで導き出さなくても、ダライ・ラマはこのアイディアに巡り会った:「愛と思いやりは人間の幸せの究極の源であり、これらの必要性は私たちの存在の根底にある。…思いやりの実践は非現実的な理想主義のただの兆しだけではなく、他人と自分の最善の利益を追求する最も効果的な方法である。私たちが——民族、集団または個人として——他人に依存すればするほど、その他人の幸福を確保することは自分にとってますます最善の利益になる。」愛が人間の幸せの究極の源であり、愛の必要性が私たちの存在の根底にあることについて彼は正しかったが、この必要性は他人への依存から発生せず、仮にそうであれば愛が手段になってしまう。愛は私たちそれぞれの中にある深い心理的な切望であり、良い人生の構成要素である。愛は本質的に満足感を与え、本質的な価値を持つ。自分らしく生きるには愛が必要となる。
愛はまさに「それ自身を充分完全に与へる」が、与えるものは諦めるものとは違う。愛することにより、私たちは本当の自分を再発見するだけではなく本当の自分を世界に明かす。愛することにより、存在すら知らなかった自己の部分を見つけ、危険と暴露を恐れて隠した他の部分を打ち明ける。真の本物の愛を経験しながら、自己を発見せず、自己を打ち明けないことが不可能である。愛することにより、私たちは最も本物の自分を再肯定し、再主張する。
愛人が互いの自律と尊厳を尊重し、互いを目的として認める時に限り、このような真の本物の愛を経験することが可能である。これらの価値観が充分に優先されない時、親密な関係において支配的、操作的または他の相互破壊的な行動が姿を現す。公的領域では、麻薬禁止や民主主義拡散のためのいわゆる「正義」の戦争のような家父長制的な政策を通して、同じ行動と態度が姿を現す。これらの行動と態度は自己発見と自己肯定を必要とする真正性への障壁である。ショーがこうも述べたとおり「自分を愛する人のために自分を犠牲にすることから始めれば、自分を犠牲にしてもらった人を憎むことに終える。」
幸いにも、その障壁を確実に壊せるのは愛だけかもしれない。特に親しい関係において、愛を演じても効果的ではない。誰かを真に愛する時、私たちは自分を厳しく見直し、矛盾をはっきりさせざるを得なくなる。愛は私たちが自分の価値観に従って生きていない時や自分の価値観が思ったより違う時を認めさせる。他の全ての物とは違い、親密の愛は相手の人生と心を観察する機会を与えてくれる。親密の愛は他人を理解する能力を拡張し、自分の人生のあらゆる側面ににじみ広がる。エロスとストルゲーの本当の意味が見つかると同時にアガペーも見つかる。人類を本当に愛する時、私たちは人間一人一人をただの手段ではなく目的として認めるようになる。本物の愛と本物の人生は表裏一体である。
愛において、エゴイズムとアナキズムの間の重複は明らかになるだけではなく、不可避にもなる。アナキストの自由、尊厳と自律はエゴイストの実現、自己発見と真正性から切り離せない。真の愛はこれらの価値観が衝突しないことを明らかにし、その価値観が本当に繁盛するには互いを必要とする。アナキストかつエゴイストの両方ではない愛は愛であるとは言い難い。
私自身の愛し愛される経験は共有型成長、自己発見と自己肯定の道となっている。私と相手はしたいから愛し合っている。互いの人生を豊富にし、利他的にではなく利己的に互いのプロジェクトを支える。どちらか片方が得すれば、両方が得する。一緒にする妥協と選択は全く犠牲ではなく、一緒にかつ互いに見つけた共有価値観の肯定であり、私と相手を強めてくれる。私と相手の愛は共有の真正性であり、共有の開きであり、共有の実現である。このような愛を経験することにより、私は可能であると思ったよりも自分を理解するようになった。可能であると思ったよりも他人を理解するようになった。愛し愛されることにより、私は今までより自分をもっと与えることができていて、何も諦めていない。それが相互的であると信じている。私と相手の愛は二人のエゴイズムである。
私の夫のコーリー・マッシミーノ(Cory Massimino)に本稿を捧げます。
- エマ・ゴールドマン 著『結婚と恋愛』伊藤野枝 訳、無政府主義図書館(2025年6月検索)
https://ja.theanarchistlibrary.org/library/kekkon-to-renai
a b c d - Puka, Bill. “The Liberation of Caring: A Different Voice for Gilligan’s ‘Different Voice’.” Hypatia 55.1 (1990): 58-82. ↩︎
- Card, Claudia. “Caring and Evil.” Hypatia 5.1 (1990) 101-8. ↩︎
- Davion, Victoria. “Autonomy, Integrity, and Care” Social Theory and Practice 19.2 (1993) 161-82. ↩︎
- 日本聖書協会『新約聖書』、 1985年、 ISBN 4-8202-2002-0 a b